Japan Society for Madagascar Studies / Fikambanana Japoney ho an'ny Fikarohana momba an'i Madagasikara
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「マダガスカルでファションを考える」

杉本星子 (京都文教大学)

 ファッションをめぐる研究は、西洋服飾史を軸とした研究と、民族学・民俗学による民族衣装の形態・素材・製作技技法の研究を中心にすすめられてきた。これに対してカルチュラル・スタディーズは、それまでの研究で顧みられることがなかったストリート・ファッションを研究対象とすることによって、ファッション研究に新たな展開をもたらした。そもそも英語のファッションという言葉の原義は「成形する」ことである。近年のファッション研究は、ファッションをヒトの身体を社会的身体に「成形」する装置のひとつとして捉え直すことによって、権力と身体、身体とファッション、ファッションとアイデンティティーといった問題を議論している。本発表では、こうした新たなファッション研究の視点から改めてマダガスカルのファッション史を振り返ってみたい。

 マダガスカル・ファッション史の第一期はヨーロッパ人到来前の時期である。この時期、マダガスカルの人びとは土着の織物を裁断せず、そのままランバとして身にまとっていたようである。マダガスカルの織物は素材や織り技法に若干の地方差があるとはいえ、全島的に統一性が高い。素材はおもに絹、綿、ラフィア、サイザル麻、樹皮繊維であり、地組織はいずれも平織りもしくはその変化型で、縞模様や紋織りによる浮き模様がほどこされている。またマダガスカルは古くからインド洋交易圏に組み込まれており、北西部や北東部の衣服にはスワヒリ文化の影響、南東部には中近東のイスラム文化の影響も見られた。

 第二期はヨーロッパとの接触によりマダガスカルに西洋服が導入された時期である。中央高地のイメリナ王国では、ラダマI世がイギリスのキリスト教ミッションの助言を得て国政を大きく改革した。王はナポレオンに心酔しており、西洋の最先端ファッションを採り入れ緋色の英国製布のランバを身につけていた。彼は軍隊に西洋式の訓練をするとともに西洋風の軍服に取り入れた。今日メリナの人びとがファマディハナの儀礼(再埋葬)の楽隊衣装のルーツは、この軍服にあるといわれる。次のラナヴァルナ I世はシルクやヨーロッパ製布のドレスに白いマダガスカル製ランバというファッションで臣民に謁見した。西洋服は地方の首長層にも導入された。また首都を中心に西洋の帽子が大流行した。一方、後に正統な「マダガスカルの伝統」として常に参照されることになる王宮の装飾や王侯貴族の織物模様が作られたのも、この時期である。化学染料が英国から輸入され鮮やかな色彩の織物がつくられるようになった。王侯貴族のために、多色の縞柄や複雑なデザインを織りだす技法も発展した。高位の人びとの織模様には、ラナヴァルナI世のアドバイザーであったフランス人ラボルドゥがインドのデザインからインスピレーションを得て考案したオリエンタルな意匠も組み込まれているという。「マダガスカルの伝統」は、西洋人のオリエンタリズムと手をたずさえて創造されたともいえるのである。

 第三期は、フランスの植民地統治時代、西洋服の浸透と平行する均質な国民としての近代的身体そしてフランス指向のコロニアルな身体の形成期である。メリナ王国の解体とともに複雑な織技術も失われた。中央高地の上層の人びとは白い絹や綿の布に白の織り模様あるいは刺繍を施したランバを身につけることで、無地のランバを用いる一般の人びととの違いを示すようになった。軍隊や役人、学校のユニフォームから最先端のファッションまで、フランスのモードを取り入れた西洋服が流行した。それに伴い女性のファッションはクリノリン・スタイルから短めのスカートそしてスーツへと変化していった。フランス製やイギリス製の輸入布が大量に流入するなかで、地方的な衣服の特徴も明らかになっていった。中央高地の人びとは西洋服に白いランバを纏い、ベルベットのリボンを巻いたストロー・ハットをかぶるという都会的なおしゃれを正装とするようになった。それはインド更紗やフランス製プリント地の腰巻きに藺草の縁なし帽を好む東海岸の人びととの差異を強調することでもあった。西海岸地方の人びとのあいだには鮮やかな色彩で花模様などが描かれた二枚組のプリント綿布が普及したが、それとともにインドネシアとの共通性を指摘される絣の技術は失われていった。また東アフリカ沿岸のスワヒリ人と共通する格言入りプリント綿布(カンガ)も用いられるようになった。古くからムスリム文化の影響の強い北西部や南東部では、ジョホとよばれる長い上着にターバンあるいは布製縁なし帽というザンジバルのスワヒリ商人や中近東のムスリム風の衣服も採用された。

 第四期は1960年の独立後の時期であるが、西洋とりわけフランス指向のファション傾向は植民地時代と大きく変わらない。ただし社会主義政権下の軍隊のユニフォームなど、今後の研究が待たれる分野もある。

 第五期は1990年代以降、すなわちマダガスカルが世界的なファッション産業のシステムへと組み込まれた時期である。欧米系テキスタイル企業のマダガスカル再進出とともに、マダガスカルのファッション関連産業も発展した。マダガスカル人デザイナーやモデルが活躍し、デザイナーズ・ブランドも次々と生まれた。各地でミス・コンテストが盛況のうちに行われ、モデル・クラブもできた。欧米の最新モードが即座に取り入れられるだけではなく、マダガスカルからもモードが発信されるようになったのである。他方、マダガスカルの重要な産業であるツーリズムの振興は、伝統的なローカル・ファッションに観光資源としての新たな価値を付与することにもなった。また、キリスト教ミッションが貧しい女性の生活を助けるために教えたレース刺繍やカットワーク刺繍がマダガスカルの物産となった。

 現在、マダガスカル人デザイナーが作り出すモードには、世界に通用するインターナショナルなモードへの志向と、マダガスカルのオリジナルなモードへの志向という二つの方向性が見いだされる。マダガスカル・モードの創造をとおして、これまで出身地方や民族に基づくアイデンティティーによって分断されていたマダガスカルの人びとのあいだに、マダガスカル人としてのアイデンティティーが模索されている。ラフィアや野蚕といったマダガスカルの自然素材を用いたファッションが見直されている。しかしマダガスカルの人びとにとっていまだに野蚕は屍衣イメージ、ラフィアは田舎の粗野な服のイメージと強く結びついており、エレガントな最新モードのイメージとはほど遠い。またマダガスカル・モードが「自然」素材を強調することは、西洋の「文明」に対してマダガスカルを「自然」さらには「未開」の側に位置づけるようなイメージ化に荷担することにもなりかねない。さらにマダガスカル南部の墓のモチーフなどを用いたマダガスカル・エスニックの創造は、ファッションの中心である中央高地の「都市」に対して南部地方を改めて「ローカル」として位置づけることでもある。あるファッションを身につけることは、そこに埋め込まれた思想を身に纏うことにほかならない。マダガスカル・モードの創造は、こうしたさまざまな権力関係の再編成という側面を無視しては語れないのである。

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