Japan Society for Madagascar Studies / Fikambanana Japoney ho an'ny Fikarohana momba an'i Madagasikara
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「東南アジアの稲作からみたマダガスカル」

田中耕司(京都大学東南アジア研究センター)

 マダガスカルの栽培植物のなかには、ヤムイモやタロイモ、バナナ、ココヤシ、パンノキ、ヒョウタンなど、東南アジアが原産地と考えられる作物が少なくない。また、これらの呼称も東南アジアでの呼称と類似していて、史前に、東南アジアからインド洋をわたってもたらされたと考えられている。報告でとりあげたイネもそのような作物の一つである。

 マダガスカルで栽培されるイネはアジアイネ、すなわちOryza sativa L.で、南西部の乾燥地帯を除くほぼ全域で栽培され、同国のもっとも重要な穀類となっている。水田で栽培される水稲や焼畑で栽培される陸稲などの分化がみられ、品種の変異も多様である。栽培技術にも多様な地域的変異が認められ、アジアでの稲作と同様に、マダガスカルでも地域的に異なった稲作の技術体系が成立している。

 栽培イネや稲作技術におけるこのような変異は、マダガスカルへの先史時代における人の移動を考える際に、重要な情報を与えてくれるだけでなく、アジア稲作圏の最西南端に文字どおり飛び地のように位置するだけに、アジア稲作の系譜や伝播を考えるうえでも興味深い研究テーマとなる。

1.マダガスカルのイネと稲作

 マダガスカルで調査を行ったのは1986年であるから、もう15年あまりも前のことになる。ちょうどその頃、IRRIによる改良品種の導入など、アジアの稲作近代化の波がマダガスカルに広がろうとする時期であった。現在では、マダガスカルのイネの品種や稲作技術も随分と変わってしまったと思うが、調査当時には、まだ在来の品種と技術を用いた稲作が各地で行われていた。

 マダガスカルの稲作地帯は、大きくは次の3つの稲作地帯に区分できる。降雨量の多い東海岸に連なる「焼畑・水田稲作複合地帯」(以下、地域1)、標高の高い中央高地に広がる「灌漑・天水稲作複合地帯」(以下、地域2)、そしてやや乾燥が強くなる北西部の「稲作・牧畜複合地帯」(以下、地域3)である。これら3地域において、在来品種を収集し、その形態的特性等を調査するとともに、各地の稲作作業の構成要素(本田準備法、イネの栽植、収穫、脱穀などの栽培法、調製・貯蔵法など)を系統的に調査した。

 その調査から、イネ品種の地理的変異については、以下のようなことがわかった。まず、水陸稲の分布では、地域1の北部、すなわちベツィミサラカ地方や、地域3においては水稲に加えて陸稲の分布も多く、地域1の南部や地域2では水稲が卓越していた。また、それをイネの遺伝的な特徴でみると、マダガスカル全域にインディカ型のイネ品種が分布するが、地域1の東海岸の焼畑地域ではジャバニカ型のイネ品種が広く分布することがわかった。地域2ではジャポニカ型の品種も採集されたが、これらは全て近年の稲作改良技術の導入によってもたらされたもので、栽培される品種の大多数はインディカ型品種であった。

 稲作作業の調査から、マダガスカルには表1に示したような作業連鎖の違いが認められた。この表は、各地での調査結果からもっとも代表的な作業をとりあげ、稲作の作業の進行に沿って配列したものである。水田での作業と焼畑での作業に顕著な差があるが、水田稲作技術についても、地域差が認められる。例えば、地域1では、アンガディと呼ばれる櫂型鋤が植民地時代以降に導入され、それまでは複数の牛を水田に追い込んで歩かせ田を耕す「踏耕」あるいは「蹄耕」とよばれる作業しかなかったこと、また収穫の際には、穂だけを摘み取る「穂摘み」がおこなわれ、脱穀に牛を使うのも植民地時代以降で、それまでは人が足で穂を踏みしだいて脱穀する「足踏み脱穀」が一般的であったことなどが明らかになった。牛を牽引力にして犁を引く「犁耕」が導入されたのは、各地域ともに植民地化以降のことであるが、地域2や地域3では、牛が脱穀作業に使われているのに対して、地域1では牛の利用が耕耘作業に限定されているのが際だった地域差として確認された。また、地域1では高床の米倉が一般的であるが、他の地域では高床米倉がみられず、米の貯蔵法にも大きな地域差があることが分かった。

 以上のような品種分布や作業連鎖の違いをまとめてみると、マダガスカルの稲作は、全体として「犁耕以前」とでも総称できるようなアジアの稲作技術の古層にある技術によって成り立っているが、その上にさらに新しい技術が導入されて、地域1と地域2および3との地域差が生じたのではないかという仮説に到達することになる。はたしてこの仮説でいいのかどうか、これを検証するためには、アジアの稲作技術との比較が欠かせなくなる。

2.アジア稲作圏の稲作技術とインドネシア

 アジアモンスーン地帯で、稲作を主要な生業とし米を主食とする人たちが住む地域がアジア稲作圏である。東アジアから東南アジアを経て南アジアの東側に連なる地域である。このアジア稲作圏では、1960年代末から始まる稲作の「緑の革命」によって在来の稲作技術が大きく変化し、いまでは、その地域差がそれほど顕著にみられなくなっているが、それ以前には、「中国型」「インド型」「マレー型」とくくれるような稲作の技術複合があった(表2参照)。非常に大まかにみれば、東アジアから東南アジアには中国型の、インドから東南アジアにはインド型の、そして東南アジア島嶼部にはマレー型の稲作が分布していた。

 しかし、東南アジアにおける以上の技術複合の分布はそう単純なものではない。実際には重複する地域があって、かなり複雑な様相を呈している。東南アジア大陸部の北部や東部では中国型が、そしてその中部や南部ではインド型が卓越するが、それらが混在したり、特定の技術要素が別の技術複合に取り込まれたりしているからである。また、少数民族などの水田稲作にはマレー型と類似した稲作技術がみられ、それらが山間地を中心に大陸部全域に散在している。また、マレー型が主流である島嶼部においても、比較的大きな平野地帯では中国型やインド型の稲作技術要素がみられる。

このように複雑な分布を示すものの、おそらく、東南アジアの稲作技術の変遷については以下のような推定が可能ではないかと考えている。すなわち、東南アジアの古層の稲作としてマレー型稲作が広く分布していたが、その後に犁耕や鎌刈りをともなった中国型やインド型の稲作技術がもたらされたために、大陸部では新しい稲作技術への転換が起こり、島嶼部ではその導入が部分的にとどまったために、いまなおマレー型稲作が広範囲に分布しているのではないかという推定である。

 では、マレー型稲作が主流であった東南アジア島嶼部では、どのような稲作技術の変遷があったのだろうか。そのことを、インドネシアを例に考えてみよう。まず、品種の分布をみると、インドネシアではインディカとジャバニカの二つの品種群が主流で、ジャポニカはごく稀にみられるだけである。そして、焼畑や山間地の水田でジャバニカが多く、平野部あるいはインドネシア西部ではインディカが卓越するという地域差が認められる。また、技術複合や稲作の作業連鎖をみても、ジャバニカが栽培されるような地域にはマレー型の稲作要素が多くみられるという対応関係がある。逆にインディカが卓越する地域には、インド型の稲作技術である2頭引きの犁耕法がインドネシアの西部や中部に、そして中国型の稲作技術である1頭引きの犁耕法がカリマンタンやジャワ、スラウェシの一部にみられるように、品種と作業連鎖の対応関係が確認されるのである。このような対応関係やその地域的な分布の様相をみると、インドネシアにおいても、マダガスカルに見られたのと同様に、古層の稲作技術のうえに新しい技術を伴った稲作技術の導入があったのではないかという推定が可能なようである。

3.東南アジアからマダガスカルをみる

 マダガスカルとインドネシアとの間にみられるイネ品種群や技術複合の地域的変異の相似性から、両者ともによく似た稲作変遷の歴史をたどったのではないかと考えられる。どちらの地域でも、マレー型と総称されるような稲作技術がまず広がったが、その後、新しい技術の導入を経験した。インドネシアの場合は中国型とインド型の、そしてマダガスカルの場合はインド型の稲作技術の導入である。

 では、マダガスカルへの稲作の伝播がいつ、どこから行われたのだろうか。たとえば踏耕、櫂型鋤、穂摘み、足踏み脱穀、竪臼での脱穀・搗精、高床米倉などの稲作の技術要素やイネの呼称を考えれば、最初の稲作、あるいは古層の稲作がマダガスカルにもたらされたのは、東南アジア島嶼部のどこか、おそらくインドネシアあたりであったことはほぼ間違いないと思われる。しかし、その時期となると、考古学的資料がほとんどないため不明としか言いようがない。ただ、インドネシアにもたらされた新しい技術の痕跡がマダガスカルではほとんどみられないことから、相当古い時代にアジアのマレー型稲作と同様な稲作がもたらされたことは確かであろう。

 一方、マダガスカルに新たに導入された稲作はインド型の稲作であった。これもいつ頃、どこから導入されたのか定かでない。地域1への拡大が比較的新しいことや、インド犁の導入がなかったことをみても、インド洋西海岸の交易が始まって以降にインディカ米の導入やその栽培に関連する技術要素の一部が導入されたのではないかと考えられる。
 マダガスカルの在来稲作の最後の変化は、植民地化以降の犁の導入である。この犁は、アジアの在来犁とは異なり、ヨーロッパで発達した有輪犁で、このような新しい技術がインド型の稲作が広がったマダガスカルの主要な稲作地帯に導入された。

 以上のような重層的な稲作の展開がマダガスカルでも起こっていたが、そのような変化をあまり受けずにきた地域が地域1の北部、ベツィミサラカ地方である。ちょうど、インドネシアの東部がアジア稲作圏の重層的な稲作の展開から取り残されてきたのと同じように、マダガスカルにおいても稲作技術変遷における周圏的な構造がみてとれるのである。

 まだ分からないことがたくさんあるが、1986年の調査では、以上のようなことが明らかにできた。マダガスカルの稲作についてはまだまだ興味深い問題がたくさんある。稲作の渡来時期がまだ分かっていないだけでなく、稲作技術にアフリカの農耕要素がどの程度入っているのか、稲作に随伴した他の作物や雑草がどうなっているのか、中央高地の棚田耕作はどんな技術の系譜をもっているのかなど、思いつくままでも、いろんな問題があがってくる。その後、マダガスカルを調査する機会がないので、このような問題をさらに調査することはできていないが、東南アジアを対象に調査をしている人間にとって、依然としてマダガスカルが興味のつきない魅力的な地域であることに変わりはない。

[参考文献]
内堀基光 2000「マダガスカルとボルネオのあいだ」家島彦一他編『海のアジア2 モンスーン文化圏』岩波書店、pp.155-180.
崎山 理 1991「マダガスカルの民族移動と言語形成」『国立民族学博物館研究報告』16(4): 715-762.
田中耕司 1989「マダガスカルのイネと稲作」『東南アジア研究』26(4): 367-393.
田中耕司 1991「マレー型稲作とその広がり」『東南アジア研究』29(3): 306-382.
田中耕司 1993「マレー型稲作の西遷」佐々木高明編『農耕の技術と文化』集英社、pp.47-65.

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