Japan Society for Madagascar Studies / Fikambanana Japoney ho an'ny Fikarohana momba an'i Madagasikara
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「減退する森と人」-ザフィマニリ社会について-

内堀基光(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所)

1.
マダガスカル中央高地の中央に位置するAmbositraの町から国道沿いに南へ16km、そこから2級道路を南東に向かって30km ほど走ると、Antoetraという村に着く。この村がみずからをザフィマニリZafimaniryと呼ぶ住民集団の居住域への南の側の入り口である。ザフィマニリは公称18と言われるマダガスカルの主要民族集団には数えられていない。だが、現在ではさまざまな観光案内本のなかで、訪れる価値のある地域、住民として推奨されている。私は1996年以来、1回ごとの期間はごく短いが、ほぼ毎年のようにこの地を訪れ、人類学・民族学の調査に乗り出している。定点調査地はAntoetraから北東へ5kmほどのところに位置するIfasinaという村である。なかなか本格的な長期調査を実施できないのが辛いところだが、今回はザフィマニリの生活を調査することがどんな意味をもつかを中心に、一般的な紹介をしたい。

2.
ザフィマニリは1970年代のはじめにフランスの地理学者Coulaudによって、また1980年代からはイギリスの社会人類学者Blochによって調査されている。Coulaudはあしかけ2年以上にわたって、この地のほぼ全域を踏査し、人口、生業、村落形態、および移動史に関する正確で網羅的な報告を著している。いっぽうBlochはメリナ(Merina)での彼の名を高めた研究のあと、ザフィマニリ地域中央部の村落を拠点に、経験の構成、歴史認識についての諸論文を発表している。これらの研究が存在する以上、なぜまたザフィマニリを調査しなければならないか。

3.
これに答えるにはわたし自身のこれまでの研究歴に触れなければならない。わたしは1970年代からほぼ一貫してボルネオ島の各地で調査をしてきた。はじめのころは主として死に関する宗教的習俗と観念、のちには民族間関係、さらには熱帯林を核とする自然環境と人間との関係と関心を移してきた。マダガスカルはこれらの関心のすべてにわたってきわめて高い関与性をもっているというのが、第一の答えである。なかでも中央高地から東海岸へ下りていく斜面(エスカープメント)一帯が、焼畑耕作の卓越と森林の存在というボルネオ島で慣れた環境にもっとも近かった。これがザフィマニリの地域を選択した最終的な理由である。退行しつつある森林線のなかで、もともと森の民と自認してきたザフィマニリはどのように生活を維持しようとしているのか。これはボルネオ島でも幾度となく問うてきた問題である。

4.
AntoetraからIfasinaをむすぶ線は中央高地の東端といってよく、高度はほぼ1500mを保っている。現在このあたりには森林と呼べるものはほとんど姿を消しているのだが、それでも1996年当時にはかすかに山道に接近するところまで張り出した森が、たった1ヵ所だけだが存在した。これが翌年には一部畑となり、今では完全にほかのところと同様の草地あるいはせいぜい低叢林の姿に転じている。森林減退のスピードを実感したが、これと同じような現象が過去100年以上にわたって続いてきたとするならば、人びとが語るように、ザフィマニリの祖先の入植当時、この地が森林に色濃く被われた地であったことは間違いない。

5.
Coulaudの聞き取り調査によれば、ザフィマニリの村落(全部で50ほど)に関しては、ほぼそのすべての中核住民およびその祖先の移動経路とおおよその移動時代が特定しうる。それにしたがい、19世紀初頭をもって彼らの現在地への拡散的移住の開始とする推定は正しいと思われる。この移住の主要因を、Coulaudは南進するメリナおよび東進するベツィレウ(Betsileo)の支配からの逃走であるとしている。この地への入植から長い間、ザフィマニリは焼畑で各種のタロイモ、トウモロコシ、インゲンマメを栽培するいっぽう、豊富な森林資源を利用して木製の重厚で彫刻などの装飾をほどこした家屋を作ってきた。棚田で名高いベツィレウと焼畑で陸稲を栽培するタナーラ(Tanala)にはさまれたかたちで、ザフィマニリの生業は米作の欠如というきわだった特徴をもっていたわけである。

6.
現在ほとんどのザフィマニリの村落では谷間に作った水田による稲作がおこなわれている。古いところでは70年ほどの歴史をもっているが、Ifasinaでは現存の最長老がすでに成人してから水田作りがはじまったとのことであり、これが正しければ、たかだか50年ほど前のことである。 80年代に調査したBlochもほんの周縁的にしか稲作には触れていないことから考えても、ザフィマニリの生業における稲作の位置づけは最近までごく低いものだったと言ってよい。Ifasinaでは新たな水田作りはなおも進行中の事業である。

7.
日常の食生活の面でも米食は中心的な位置を占めていない。ザフィマニリの家屋の中心近くにある囲炉裏には、全粒のトウモロコシ粥の鍋がほぼ一日中置かれており、これが彼らの常食である。これに次ぐのがタロイモ、おかずとして珍重されるのは水煮されたインゲンマメである。このほかキャッサバとジャガイモが作られているが、食物としての重要性はやや低い。野菜類はほとんど作られていない。冷涼な気候ゆえにバナナ、サトウキビも生育していない。家畜・家禽としては牛、ブタ、ニワトリのほか、少数の七面鳥が飼われている。栽培物のうち在来のものがタロイモのみであることを考えると、これこそが、ザフィマニリというかマダガスカル全島において、米以外に本来中心的な作物であったことがうかがわれる。

8.
エスカープメントを下りて低地に進出したザフィマニリは、タナーラと同じく水田耕作とともにサトウキビ栽培をおこなっている。これを原料とした蒸留酒(toaka)の製造と交易はザフィマニリ全域で大きな経済的意味をもっている。高地のザフィマニリははるばる山越え・山下りして、これをポリタンクに入れて運んでいる。もちろん非合法の酒造・交易であるが、往復1日かかる運搬労働(4ガロンのポリタン1つ)の労賃が5000 fmgという。この労賃は、Ifasinaの村民が村から1時間ほどのところで切り出す材木1本(10cm角、2m)が、材質にもよるがAntoetra の市場でほぼ1万fmgであることと有意に比較できる。在村しているかぎり男たちの収入源の規模はこの程度のものである。

9.
Ifasinaでは見られないが、ザフィマニリの伝統的な木彫に職業的に特化する住民もいる。こうした特化は70年代にはすでに存在していた。Ambositraの民芸品(土産物)商店のいくつかはザフィマニリ木彫品を専門的に扱っており、観光とならんで将来も有望な収入源でありつづけよう。しかしその材料となる木材、とりわけ価値の高いパリサンドル(シタン)は、ザフィマニリの居住地をはずれた低地産のものである。

10.
森林が減退するなかでもっとも効率の良い稼ぎ方、いわば生存の戦略は、伝統のなかで育まれた木彫の技術に頼るか、あるいはさらに粗放なかたちでは、木材伐採の技術に頼ることである。ザフィマニリの全域にわたって、後者の道を生かすべく、多くの男たちがマダガスカル西海岸の伐採キャンプに出稼ぎに出る。Ifasinaの場合、5月から8月にかけては、村内に壮年の男はほとんど残らないほどである。ふつう彼らはグループをなして同じ雇用主のもとで働き、キャンプでの生活も共同でするという。季節労働の終わりには、ひとりあたり最低でも100万fmgをもって帰村するそうである。木彫にせよ伐採にせよ、ザフィマニリの森林生活の遺産であるが、この遺産は今や外部の世界との関わりのなかで、そしてそこでのみ現金のかたちで生業化しうるわけである。

11.
ザフィマニリのすべての住民はキリスト教徒である。カトリックの村とプロテスタントの村、および少数ではあるが両者が混在する村がある。Ifasinaで興味深いのは、ほんらいすべてがカトリックだったこの村に、ルーテル派のプロテスタントが根を下ろし始めていることである。村の南側に集中して住む5人の兄弟姉妹を中心とするこのグループは、村南端に教会を建設中である。村の北端には石造りのカトリック教会があるから、この村は形態的には南と北とで二分される方向に進みつつある。すでにBlochはザフィマニリに潜在する社会的双分制の傾向を指摘しているが、Ifasinaの事態もあたかもこうした傾向を具現するもののように見える。

12.
だがBlochが指摘する双分制の主要な構成要素である双分単位間での外婚の傾向はIfasinaでは見られない。おそらくわれわれが目の前にしているのは、社会組織そのものというよりも村落形態に内在する空間配置あるいは村落の方位的構成なのではないだろうか。ザフィマニリの村落は山頂あるいは尾根筋に作られることが多く、比較的狭い空間に家々が密集するかたちで、しかも線的(リニアー)な空間配置をなしやすい。こうした空間配置とマダガスカル住民に共通の方位認識がむすびつき、しかも近親親族が村内で近接した家々に住むとき、リニアーな空間が社会的に双分されるかのように現れるのだと言いうる。

13.
宗教に関して言えば、キリスト教徒であるとはいえ、他のマダガスカル島住民と同じように、ザフィマニリもまた固有の葬送儀礼を維持している。死者の記念のために、死後1年ないし数年のうちに、石の立柱(男石vato lahyと呼ばれる)あるいは平たい円形の石(女石vato vavy)を配置することが特徴であるが、これはベツィレウのかつての習俗と共通している。この習俗といわゆる二次葬(複葬)と相伴うメリナ的なファマディハナは異なる習俗系列に属すると思われるが、今日ではおそらくメリナの影響下でファマディハナをおこなうザフィマニリ村落も多い。両派のキリスト教の動向とともに、こうした2系列の習俗の並存は、他の点では単調なザフィマニリの宗教事情をやや多層的なものとしている。

14.
ザフィマニリは比較的最近に至るまで、タナーラの一部と言われたり、またベツィレウの下位集団とされてきた。方言的・文化的には、ザフィマニリは確実にベツィレウの一部であり、タナーラとは大きく異なるが、その森林に適応した生業のゆえにタナーラ(「森の民」)と一まとめにされてきたのだと言えよう。現在、彼らのザフィマニリとしての自己アイデンティティはこれまでになく確固としたものになりつつあるように思われる。減退する森のきわで、木彫であれ、伐採であれ、独自の伝統技術の遺産によって立ち、しかもそれをもって外の世界に立ち向かうとき、こうしたアイデンティティを構築せざるをえないのである。しかもまた外の世界をひきつける観光の発達もこのアイデンティティをさらに強化する。

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