Japan Society for Madagascar Studies / Fikambanana Japoney ho an'ny Fikarohana momba an'i Madagasikara
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「ンダマルとの再会」―コモロ人とマダガスカルのトゥンバについて―

花渕馨也 (北海道医療大学)

モザンビーク海峡を挟みマダガスカルとは対称に位置するザンジバル島。スルターン(君主)が君臨した時代には戦争や奴隷貿易でマダガスカルと関係をもっていたが、植民地時代以降は、あまり活発な交流はみられない。この島に住むマダガスカル人はほとんどいないし、スワヒリ人と呼ばれるこの島の人々の多くはマダガスカルについてほとんど知らないようだ。

しかし、中心地であるストーンタウンの一角にあるコンクリート壁に囲まれた大きな庭をもつ家からは、ほとんど毎週のようにマダガスカルのポップミュージックが大型のスピーカーから大音量で流され、片言のマダガスカル語での会話が聞こえてくる。フンブキ(mfumbuki)というお香の匂いが充満する会場では、マダガスカルの伝統的な民族衣装に身を包み、タニマランディ(tanimalandi)という白い粘土で顔や身体にペインティングした人々が、外国産のウイスキーやラム酒を酌み交わし、槍や杖をもって踊り狂っている。

写真1 ザンジバルのキブキ儀礼

そこに集まっているのはマダガスカル北西部に18、19世紀に栄えたサカラヴァ(Sakalava)王国の歴代の王様、その家臣、兵士、そして奴隷や女性、子供たちの死霊である。彼らは人間の女性に憑依し、それぞれの身分に応じた衣装を身につけ、マダガスカル語やコモロ語で会話を交わしたり、酒を飲んでふざけ合ったりしながら饗宴を楽しんでいるのだ。金で刺繍したターバンを頭にまき、ひときわ大きく立派な勺をもち、豪華な椅子にどっかりと座りながら宴をながめているのは、サカラヴァ王国の神話的な創始者であり、大呪術師だったとされるンダミサラ王(Ndramisara)である。彼に並んで座っているのは、18世紀に王国が繁栄していた頃から、19世紀初頭にメリナ(Merina)王国による侵攻で衰退し、19世紀末にフランスによって植民地化される頃までの、サカラヴァ王国歴代の王様の面々である。生前は彼らに仕えていたとされる家臣や兵士、頭からヴェールを被った女性たちは、踊りの合間にときどき王様の前にひざまずいて挨拶し、聖水をふりかけてもらい祝福を受けたりする。子供たちの霊は王様の膝に乗せてもらい、にこにこ楽しそうである。

彼らは、ザンジバルで「キブキ」(kibuki)と呼ばれる憑依霊であり、マダガスカルやコモロ諸島からやって来たと考えられている。キブキはザンジバルの主に女性たちにとり憑き病気にしたり、さまざまな災いをもたらしたりする。とり憑かれた女性は、キブキ自身が要求する治療儀礼を開いて、キブキに名前を言わせなければならない。名前を明かしたキブキは、儀礼を済ませた女性と生涯をつうじた友好的な関係をもつようになる。ストーンタウンには、キブキにとり憑かれた多くの女性たちがグループを形成しており、ときどき治療を行う施術師の家に集まり、憑依霊たちを喜ばせ、満足させるための儀礼を開くのである。

特に80年代以降、キブキは一種の流行のようにストーンタウンで多くの女性たちにとり憑くようになったと言われている。キブキを組織する人々の多くは、コモロからザンジバルに移住してきた人々の子孫である。ザンジバルには古くからコモロ系移民が住み、特に最も繁栄したセイード・サイード(Seyyid Said bin Sultan 在位1806頃-56)の時代以降に、移民や出稼ぎとして多くのコモロ人が渡ってきた。1960年代のザンジバル革命において多くのコモロ人が脱出したが、現在でもザンジバル人口の約2%、約16,000人がストーンタウンやその周辺に暮らしていると推定されている。

2002年の調査では、86歳になるというエシャティ(仮名)という最も有力な施術師の女性とその親族を中心としたグループと、彼女によって治療を受けた弟子たちの二つのグループがキブキの活動を行っていた。ザンジバルのキブキの拡散はこのエシャティのライフヒストリーと重なり合っている。エシャティはザンジバルの移民2世である。彼女の母親はコモロのンガジジャ(Ngazidja)島出身で、タバコや食料品などを売るためにザンジバルに渡り、そのままアラビア半島南部のハドラマウト(Hadramaut)出身の男性と結婚し、第一子として彼女を産んだ。エシャティの祖母はマダガスカルに出稼ぎに行ったことがあり、母親はキブキをもっていた。

エシャティがキブキにとり憑かれたのは12歳頃であり、治療儀礼を済ませた18歳ぐらいから治療活動を始め、ストーンタウンに住む多くの女性の儀礼を取り仕切ってきた。現在ではオマーンやハドラマウト起源のアラブ系の人々にもキブキの憑依が広がり、儀礼に参加する女性たちの民族的属性も多様になってきているが、その活動の中心を担ってきたのはエシャティの家族を中心とするコモロ系移民の女性たちである。

コモロ諸島で精霊憑依についての調査研究を行っていた私は、2002年1月にザンジバルでコモロ系移民についての短期間の調査を行う機会を得た。そして、主にストーンタウンに住むコモロ系移民を中心にしてキブキという憑依儀礼が頻繁に行われていることを知り、その会場に毎日のように通うことになる。キブキは、マダガスカルやコモロでは「トゥンバ」(tromba)と呼ばれている憑依霊のことであった。スワヒリ語で「ブキ」はマダガスカルのことを指し、それに「〜である、〜語、〜的」といった意味を与える「キ」という接頭辞がついている。キブキはとり憑く憑依霊の種類であるとともに、その儀礼のことも指す言葉として使われる。トゥンバは、マダガスカル北西部に存在していたサカラヴァ王国の王族の死霊を中心とした一群の憑依霊であり、その憑霊信仰はマダガスカル全土に広く浸透しているだけでなく、マダガスカルと密接な歴史的関係をもち、移動を繰り返してきたコモロ諸島民のあいだでも広く見られる。私はコモロにおいてトゥンバについても調査を行い、ある霊媒師にとり憑いていた「ンダマル」(Ndramaro)という名の王霊とも親しくしていた。

コモロのトゥンバ儀礼 写真2

マダガスカルやコモロにおいて、ンダマルはトゥンバの中でも最もよく知られた存在の一人である。ンダマルは、サカラヴァ王国のザフィンブーラメナ・ベミヒサタ(Zafimbolamena Bemihisatra)王朝の7代目の王アンドリアマルファリ(Andriamarofaly)の死霊で、1749年に王位につき、1780年に死亡したとされる。ンダマルは死後トゥンバとなった死霊に与えられた名前ンダマルファリ(Ndramarofaly:「タブーの支配者」)を縮めた呼び名である。ンダマルは、歴代の王の中でも最も暴力的で、野蛮な王だと言われ、その名が示すように、タブーを犯すようなさまざまな蛮行を行ったとされている。生きているときに、妊婦の腹を割き、子供がどのようにできるのかを見たなどといった伝承が残っており、彼の暴挙をやめさせるために親族によって罰せられて死んだという話もある。彼の骨はマジュンガにあるンダミサラ王のドゥアニ(doany)と呼ばれる王墓に一緒に収められている。

コモロでの調査から5年後。ストーンタウンのキブキの指導者であるエシャティとはじめて面会した時、私は、自分が長年コモロで調査をしており、コモロでもキブキ(トゥンバ)儀礼に何度も参加していることを話し、ぜひ儀礼に参加させてほしいと頼み込んだ。最初は冷たい態度で、訝しがっていたエシャティの表情が一変したのは、私がコモロで何人かの王霊を知っていることを話し、その一人としてンダマルの名前を出した時である。エシャティは笑い出し、「彼はンダマルを知っているんだとさ!」と周りの者につげると、周りの人々も笑い出した。この笑いの邂逅によって私はエシャティの家の庭で頻繁に開催されるキブキの儀礼に参加することが許されたのである。

そして、私はンダマルとザンジバルにおいて再会することになる。ンダマルに会ったのは二度目にキブキ儀礼を観に行った時のことである。まだ儀礼が始まる前に、女性たちが儀礼の準備をしている間、私は部屋の中で食事を与えられ、儀礼でカセットテープの音楽を流す役割をもつDJと呼ばれる男と雑談していた。その時、一人の大柄の女性がなにかをわめきながら部屋に入ってくると、あいさつ代わりにDJの肩を思い切り平手打ちした。そして、私に気づくとにやっと笑い、近づいてきて私の肩を思い切り何度も平手打ちした。片手にはウイスキーの瓶が握られ、すでに足元がふらつくほど酔っ払っている。DJは「気をつけろ! 彼はンダマルだ!」と私に注意した。ンダマルは乱暴で有名なのだ。私はその女性がンダマルに憑依されていることを知った。

ンダマル(に憑依された女性)は、コモロ以来、まるで久しぶりに会ったかのように、私に対しふるまった。儀礼が始まると、さらに踊りながらウイスキーをラッパ飲みし、椅子にどっかりと座ると、私をみつけて近くに来いという。私が行くとウイスキーを何杯もふるまわれ、肩を組んできて、英語で「何を知りたいんだ!」と何度も聞いてきたり、「お前の妻は今頃だれかとセックスしてるぞ!」などと卑猥な言葉を浴びせてきたりした。それは、まぎれもなく乱暴で、猥褻で、いたずら好きなンダマルのふるまいだった。ただ、コモロで出会った時とちがっていたのは、コモロのンダマルはコモロ語とマダガスカル語を話していたのに、ザンジバルでは英語を話し、コモロ語はほとんど話せなくなっていたことだ。

この個人的エピソードは、マダガスカル文化の広がりについて考える上で一つの面白い材料になるのではないだろうか。マダガスカルから海を渡った異郷の地で、マダガスカルに行ったこともない人々のもとで、マダガスカルの王様たちが酒を酌み交わしている。これは、マダガスカル文化というものが、マダガスカルの土地を離れ、マダガスカル人という民族さえ離れて、まったく異質な社会や文化の中に出現する特殊な経路、トゥンバ憑依の拡散という現象を通じた文化の伝播とはいえるのではないだろうか。文字通り、人にとり憑くことで、文化の感染が広がっているのだ。

マダガスカル北西部のサカラヴァ王国を起源とするトゥンバ憑依は、マダガスカルと密接な関係をもってきたコモロ人を介してコモロ諸島やザンジバル島に浸透するようになった。さらに、世界各地に出稼ぎや移住を展開するコモロ人によって、その拡散はフランスにまで広がっている。

2006年8月、私はフランスのマルセイユ市におけるコモロ系移民の調査を行った。マルセイユ市では、1970年代以降コモロ系移民が急激に増加し、現在では市の人口の10%に当たる8万人ほどが住んでいると推計されている。そのマルセイユ市のコモロ人が多く住む郊外にあるHLMと呼ばれる低家賃団地の一室では、フランスのママン・イゾレ(母子家庭手当)に頼って暮らす女性などが集まり、昼間からトゥンバ儀礼が開催されていた。遠いフランスの地で、若い女性たちに憑依して、フランス産のワインを飲むマダガスカルの王様たちと出会う。それはなかなか楽しいことである。

写真3 マルセイユ郊外で開催されたトゥンバ儀礼

【引用資料】
花渕馨也
2006 「海を渡るトゥンバ − インド洋西域における精霊憑依」『自然と文化そしてことば』第2号<インド洋の十字路マダガスカル> 葫蘆舎 pp.106-116
2007(未出版) 「海を渡った素敵な王子さま − インド洋西域における精霊憑依とライフヒストリー」発表原稿 マダガスカル研究懇談会第11回大会(東京農業大学)

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